足一騰宮(一柱騰宮)

1 神武天皇の東征神話
 記紀によると、邇邇芸命の子孫である神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト=神武天皇)は、大和の国の平定を目指して日向を出発した。一行は筑紫の国(豊の国)の菟狭(うさ=宇沙=大分県宇佐市)で、菟狭国造(うさのくにのみやつこ)の祖の菟狭津彦(ウサツヒコ=宇沙都比古)、菟狭津媛(ウサツヒメ=宇沙都比売)の兄・妹の大御饗(おおみあえ=大宴会)を受けた。また、宇沙都比古の流れをくむ「宇佐氏」と「藤原氏」が近親の間柄であったことが、八幡神が中央に進出するきっかけになったとの説もあります。「古事記」「日本書紀」を作った当時の指導者が、大和朝廷の誕生に宇佐の地を絡めさせ、利用したかった真意は?? 当時「宇佐の地」が、朝廷にとって無視できない存在であったことが想像されます。

2 足一騰宮(一柱騰宮)
 御饗を受けた場所は「足一騰宮(あしひとつあがりのみや=一柱騰宮)」となっていますが、場所等定かではありません。(神話ですので当然のことと言われれば当然で(-_-;))
 記紀の編集者は特定の場所を想像しながら作ったと思われますが、菟狭川の上流と書いただけであり、邪馬台国と同様、各地に候補地が出来てしまいました。
 滞在日数は約1ヶ月、宮の作り方は、本居宣長によると「宮の一方は宇佐川の岸に片かけて構へ、一方は流れの中に、大きなる柱を唯一たてるなり。」と、また、景色の良いところに建てたであろうと解説している。
 
 @宇佐市拝田説
 宇佐市の中央にあり、むかし妙見山下まで海水が来ていたと想像すれば、一番良い位置にある。また、風景にも優れ現存する鷹栖観音付近はぴったり。
 現在遺跡としている石碑の立っている所は、川から少し離れたところにあります。私など歩いて遠くに行く文字どおりの「遠足」で何度も行きましたが、歴史に興味を持ちはじめた40代まで、どのようないわれのある場所なのか、また、他の候補地があることなど、ほとんど知りませんでした。

 A宇佐市宇佐説
 宇佐神宮の呉橋の上の丘陵地。寄藻川を宇佐川であると特定し、船で来たとしているが、ここは船で直接はこられず、途中からかなりの距離の陸路となる。しかし、貝原益軒著の八幡宮本記などでは宇佐説をとっています。宇佐神宮の境内地で雰囲気的には良いのですが、寄藻川を菟狭川であるとすること自体に無理があると思われます。

 B宇佐市安心院町妻垣説
 宇佐川(駅館川)の20キロ上流にあり、船で行かれず交通の便が悪い。ちょっと考えられないが、妻垣神社の案内板には、一柱騰宮であると書いてあります。宇佐神宮「二之御殿」に祭られている「比売大神(ひめおおかみ) 御名 三女神」の故郷がこの妻垣神社だと言い伝えられており、それらのことを踏まえて、後世の人が誘致したのかも知れません。

3 日本書紀
 

 行きて筑紫国の菟狭(うさ)に至ります。時に菟狭国造(うさのくにのみやつこ)の祖有り。号(なづ)けて菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)と曰(い)ふ。乃(すなわ)ち菟狭の川上にして、一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造りて饗(みあえ)奉る。是の時に、勅(みことのり)をもて、菟狭津媛を以て、侍臣天種子命(おもとまへつきみあまのたねのみこと)に賜妻(あわ)せたまふ

宇佐市上拝田 

 宇佐市上拝田(旧豊川村) 後ろの池は石走池(花立池)15年の歳月を要し、寛文6年(1664)に完成しました。
 
 宇佐市上拝田 右側の石碑には、大正9年11月に実施された大分県での陸軍特別大演習の時に、「皇太子裕仁親王殿下」が四日市尋常高等小学校にお出でになった。その時に幸光陸軍歩兵少尉が殿下の御前で、国史に於ける講演をされた。その中で神武天皇の東征と大御饗の話をされ、その場所が豊川村にあると奏上された。このことにより現地に「御前講演記念碑」を建立したと刻まれています。天皇陛下の代理として来られた殿下も、祖先が立ち寄られた地に興味を持たれたことでしょう。ここ拝田は拝(おが)まれた土地であり、「オゴウダ」(=おがんだの方言)という地名も残っています。
 鷹栖観音堂 断崖絶壁の岩窟を利用した懸崖造り(けんがいづくり)の観音堂です。対岸の鷹栖山観音寺の奥の院です。奈良時代の養老年間(717-724)に僧法蓮によつて開基されたと伝えられています。  鷹栖観音堂内部 この観音様は「知恵観音」と呼ばれ、毎年1月10日には「千日参り」が行われており、この日に参拝すると、千日お参りしたのと同じご利益があるといわれています。
 鷹栖観音堂内 一木作りの等身大の仏像 螺髪があり、左手は下げており与願印と思われます。右手は欠落していますが、欠落の状況から見ると施無畏印になっていたのではと思われます。このことから「釈迦如来」ではと思っています。  鷹栖観音堂への参道 ごく最近まで対岸への橋が無く、宇佐市山本の古代寺院虚空蔵寺跡の所から参拝していました。
 吊り橋が出来て、参拝も楽になりました。左の山が和尚山、右の山が妙見山です。
 橋のこちら側は宇佐市山本、むこう側は宇佐市上拝田です。
 鷹栖観音堂への階段途中にある水路に架かった橋。この水路は享保年間に先人が苦労して作った「桂掛井堰(かつらかけいぜき)」。取水口は妙見山のむこう側にあります。 現在は国営駅館川農業水利事業により新たな水路が建設され利用されていません。間歩は「コウモリ」が家に利用しています。
 
 駅館川(菟狭川)の清流。 宇佐市中心部の飲み水は、ほとんどがこの水です。今は清流ですが、台風の時などは気分が悪くなる位に水量が増えます。そのために豊州線(軽便鉄道)の橋も流され廃止されてしまいました。   鷹栖観音堂境内から対岸を望む。この近所が「足一騰宮」の可能性が大きいのだが?
 石碑のあるところは、和尚山(右の山)のこちら側のふもとです。この鷹栖観音では、新年の伝統行事「鬼会」が1月4日の夜行われます。寒いのがおっくうでまだ写真はありません。「鬼会」の鬼が笑うかも知れませんが、来年は写真を撮りに行く予定です。違った・・・お参りに行く予定です。
 和尚山(かしょうざん)案内図 法蓮和尚が座禅を組んで修行した座禅石があります。宇佐市上拝田 一柱騰宮


妻垣神社

 妻垣神社本殿(宇佐市安心院町妻垣203)  妻垣神社の由緒記 一柱騰宮の旧跡であると書かれています。
 妻垣神社参道  妻垣神社の紋所 宇佐神宮と同じ三つ巴
 妻垣神社入り口の鳥居 何か変だなあと思ってよく見たら、電飾が・・・ なにか雰囲気が良くないなあ・・・  妻垣神社横の空き地。 騰宮学館の跡で、昭和38年に廃止されたが、一時神職の養成もしていたと、左奥の石碑に刻まれていた。


 ※妻垣神社の拝殿に神社の由緒書きがありました。(pdfファイルです)
   ここをクリックNO1
   ここをクリックNO2


宇佐神宮

 宇佐神宮境内の「足一騰宮」と言われている場所。ここには、それらしき石碑等はありません。
 最近新しい石碑が...建った。(H27.10.05)
 相撲場跡からみた足一騰宮と思われる所
 表参道に通じる神橋外側にある神武天皇聖蹟菟狭顕彰碑
 紀元2600年奉祝の事業として同一設計・同一規格のものが、昭和15年11月に西日本の19箇 所に建設されました。
 裏には「神武天皇甲寅年冬舟師ヲ帥ヰテ筑紫国菟狭ニ至リ給ヘリ聖地ハ此ノ地方ナリト推セラル」と刻まれています。 「この地」でなく「この地方」と刻んでぼかしています。
 寄藻川下流の状況(宇佐神宮野球場付近) 河川改修でいくらか良くなりましたが、流域が狭く、以前は岩盤の間を水がチョロチョロと流れる状況だった。舟で来ることはできない。 勅使祭をめがけて神宮境内に新しく石碑を作ってしまった。(H27.10.05) 左下はその説明板