毛谷村六助資料館を訪ねる
令和7年2月15日中津市山国j町槻木にある毛谷村六助(けやむら
ろくすけ)のお墓参りと、毛谷村六助資料館を見学してきました。
東京の国立劇場などで上演される歌舞伎「彦山権現誓助剣」(ひこさんごんげん
ちかいの すけだち)の主人公 毛谷村六助 は、山国町槻木地区の毛谷村で生まれました。親孝行者の豪傑男として知られていた六助は、のちに加藤清正の家臣として名を「木田孫兵衛」と改めました。豊臣秀吉の朝鮮出兵に赴き、一番槍の名を馳せたといわれています。そんな六助の墓を地元の人々は今も大切に守り続けています。
「英山権現誓助剣」のあらすじ
令和7年1月5日(日)〜27日(月)に新国立劇場で上演された初春歌舞伎公演。 尾上菊之助さんが、英彦山山中の話から仇討ちの助太刀まで通しで演じてくれています。
天明6年(1786)に人形浄瑠璃として初演された本作は、心優しい剣の剣の達人・毛谷村六助が美しい「お園」と出会います。大名・郡家(こおりけ)の剣術指南役吉岡一味斎は、毛谷村に住む六助に剣術の奥義を伝授します。その後、安芸広島に住み、毛利家に仕える京極内匠と、吉岡一味斎との御前試合が行われますが、京極内匠はその負けを恨んで吉岡一味斎を闇討ちにしてしまいます。悲観にくれた一味斎の娘お園は、仇討ちのため母と妹らと仇討ちの旅に出ます。
京極内匠はお園一家との戦いにより、お園の妹を返り討ちにした。その後、自分の親「明智光秀」の仇である「真柴久吉」(後の豊臣秀吉)への復習を誓って小倉藩に士官します。士官するために年老いた母のためと嘘をついて六助に御前試合で負けてもらっていました。
後で六助はそれがまったくの偽りであると知り、烈火のごとく怒った。その後、六助の師匠である吉岡一味斎の娘お園と出会い、一緒に仇討をすることになった。という筋書きです。
この話の面白さと、古典芸能の面白さ…機会があれば是非鑑賞したいと思っています。
「毛谷村六助資料館について
毛谷村六助を通じて「まち興し」を企画する堯
純一(たかしじゅんいち)さんは、山国町に地域おこし協力隊としてきました。山国町の魅力に惹かれ、毛谷村の自宅を改造し「毛谷村六助資料館」を開設しました。
資料館には六助に関する貴重な資料が所狭しと展示されていました。
「英彦山と山国ついて
英彦山は、奈良県の大峯山、山形県の出羽三山と並び日本三大修験の山に数えられています。山国町は英彦山の裾野にあり、英彦山神領でした。
宇佐神宮と深い関係にある英彦山。英彦山神宮と毛谷村六助のお墓にお参りしませんか。
毛谷村六助(木田孫兵衛)の墓 | 六助の説明板 |
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和紙の原料になる「ミツマタ」 お墓の傍にあります。 山国町槻木や草本は、昔は紙の産地であり、製紙が盛んだったそうだ。枝分かれが3つになることから「ミツマタ」とよばれるようになったそうだ。 なお、国東半島にはミツマタの群生地が点在しており、3月中旬が見頃とのこと。 |
通し狂言 彦山権現誓助剣 パンフレット |
毛谷村六助資料館内部と 館長の 堯 純一さん | 「彦山権現誓助剣」の台本 |
毛谷村六助資料館への道順 東九州自動車道の中津インターを出て、中津日田道路に入ります。 中津日田道路は現在建設中のため「青の洞門・羅漢寺インターチェンジ」で降り、 国道500号を宇佐市院内町方面に走り、本耶馬渓インチータェンジに向かいます。再び中津日田道路に入り、耶馬溪町下郷で降り山国町守実に向かいます。 山国町守実の国道212号交差点から、国道500号に入り、14kmほど英彦山方面に向かってひたすら走ります。そうすると案内看板があります。 英彦山に行くにはそのまま国道500号を進みますが、酷道ですので注意して運転してください。冬季は直ぐ通行止めになります。 |
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「彦山権現誓助剣」の台本 (天明6年) |