八面山と僧法蓮〜中津市三光〜
  
宇佐神宮生みの親  

 福岡県との県境に近い中津市三光地区の南部ある「八面山」に登ってきました。(R06.06.05)
 四方八方のどの方角からみてもほぼ同じ姿をしているところから八面山と呼ばれています。また、昔はこの山に矢の材料に使われる矢竹(箭竹)が多く生えていたことから箭山(ややま)とも呼ばれています。
 八面山は山頂付近まで車で行くことができ、登山道も整備されています。展望台からは開放感ある景色を望めます。80間近の爺ちゃんなので、車での登山となりました。標高は 659 メートルで、豊前海や中津市街、豊前市、そして国東半島や姫島まで一望できます。麓には金色温泉があり、青の洞門も中津日田道路で直ぐそこです。うん十年前の若い頃、冬に歩いて登ったら水筒の水が凍っており、びっくりしたのを思い出しました。

1.宇佐神宮と僧法蓮
 
ここで語らなくてはならない人物に「法 蓮(ほうれん)」があります。僧法蓮は822年に嵯峨天皇から金襴の袈裟を賜り、英彦山霊仙寺(現英彦山神宮)座主となりました。英彦山〜求菩提山〜八面山〜両子山と連なる修験の山で修行を積み、その名跡も多く存在しています。また、医薬に長けていたとされており、『続日本紀』によると、中国から健康に良い「唐菜」の輸入に成功しており、その功績で大宝 3 年(703 年)9 月に豊前国の野 40 町を賜りました。「唐菜」は、その後、ほうれん草と呼ばれるようになったそうだ。法蓮は全国に 40,600 社あるといわれる八幡さまの総本宮である宇佐神宮の成立と不可分な存在でした。九州北部は朝鮮半島からの渡来人が多く、進んだ文化・技術をもたらすとともに、彼らの神と信仰をもたらしました。その集団と信仰する神が東進を図り、大分県北部地方で地元の神と融合するお膳立てをしたのが法蓮だといわれており、その場所が八面山であったと推定されています。
 八面山の麓には広い池を有する薦(こも)神社があります。薦神社は宇佐神宮の祖宮ともいわれ、神社の御神体である池に生える真薦(まこも)を切って枕を作り八幡神の依代としてきました。法蓮はその後、宇佐神宮の境内に建てられた弥勒寺の別当になったりと大いに活躍しましたが、いつの間にか歴史の舞台から消えてしまいました。弥勒寺も明治新政府の神道国教化政策による仏教排斥運動により壊されてしまいました。

2.和 与 石
 
『八面山縁起』によると、和与石は「大宝元年(701 年)に、八幡大菩薩が唐の国から帰り、英彦山にいた僧・法連と宝珠の授受について争ったのち、この地で和与(和解)しました。そのときに御座した巨石なのです。つまり手打ち式の会場に立ちあった神聖な神様であるといわれています。

3.箭山権現石舞台
 古代巨石信仰の磐座(いわくら)で、昔この石舞台で五穀豊穣・家内安全・病魔厄除のために箭山権現に神楽を奉納していたといわれています。縦 19.3m、横 13m、周囲 57.3m、面積 250u、畳 152 枚敷。石舞台としては日本一の大きさを誇ります。石舞台の上部は神楽が舞うことのできるほどの十分な広さがあります。

4.神護寺の釈迦涅槃像
 八面山登山口にある神護寺には、釈迦涅槃像があります。涅槃像は初代住職篠原覚瑞師が、昭和41年10月に発願し、霊山である八面山に幾万年も眠る巨石に、釈迦の入滅する姿(頭を北に、顔を西にして足を重ねた姿)を刻み、昭和47年5月28日に完成しました。これを拝む人々に釈迦の遺徳を偲んでもらい、平和公園に祀る日米兵士の霊を慰めるためとともに、世界平和の願いを込めて作られたものです。仏師は国広石峯・秀峯父子(福岡市)。全長 7.88m、高さ1.4m で、自然石に刻まれた涅槃像としては西日本有数の大きさです。

  八面山園地 天空の道・展望台から中津市街地を望む     僧法蓮が賜わった豊前国の野40町では
    と推定されている地域と八面山
   箭山権現石舞台   和与石 2つの神様が握手をしている?
薦神社絵縁起    薦神社絵縁起写真は薦神社ホームページ
   http://komojinja.jp/publics/index/8/から頂きました。
   神護寺の釈迦涅槃像



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